平成になって「趣味の水墨画」という雑誌が創刊され、そこに本書のもとになる「本朝水墨画人伝」が連載された。あきらかに村松梢風の名著『本朝画人伝』を意識していた。それが本になった。 改題して『墨絵の譜』となったのは好ましい。サブタイトルが「日本の水墨画家たち」。雪舟から始まって、相阿弥・永徳・等伯・宗達・光琳をへて、応挙・若冲・蕭白・蘆雪とたどり、大雅・蕪村らの文人画を鉄斎でしめくくり、明治からは御舟と大観だけを入れている。
足立巻一とは誰か。 司馬遼太郎が唸った作家である。 “やちまた”とは何か。 八衢である。 この題名は、本居春庭の『詞八衢』に由来する。 『詞八衢』は、のちに八衢派とよばれる系譜を生むほどの、国語学史上の動詞活用研究を画期した。 このほかのことは以下の紹介を読まれたい。 諸君にできるだけ驚いてもらいたいからだ。
どうも1985年あたりから始まっているらしい“変な日本”というものがあるようだ。 中曽根、レーガン、おいしい生活。 中流、地上げ、村上春樹。 そのときひそかにプラザ合意が結ばれていた。 リーマン・ブラザーズが倒産し、AIGが救済される現在から、1985年をふりかえると…。
旧ソ連のコンセプチュアリズムの片隅から一人の絵本作家が登場してきた。 イリヤ・カバコフである。 その奇抜独特の構想をともなったインスタレーションは、本格的なエディトリアル・アートのロシア的出現といえるものだ。 カバコフの生み出す「別様の存在」とは…。
滝廉太郎が明治36年2月に24歳半ばで夭折したとは思えない。未曾有の才能が早くからほとばしっている。とくに遺作となったピアノ独奏曲『憾』(かん=うらみ)である。 『憾』は傷ましい心を貫く曲だ。僅か64小節の3部形式のピアノ曲ではあるが、第2部では長調に転調して、レガートな曲調がなんとも優美な弱奏となり、その直後にメゾフォルテからフォルテによる主題の再現に向かうのだ。
日本という国家が気になるなら、議論の仕方をおぼえなさい。 国家に縛られたくないのなら、「日本という方法」を学びなさい。 今夜は、あえて「国家の条件」をめぐって、正面切りたい者のための一書からのご案内。
地球温暖化が進んでいるという。 犯人は温室効果ガスで、その主犯は二酸化炭素とされている。 それで炭素排出量を規制しあって、互いに取引をし、バイオ燃料開発に向かうべきだということになった。 ちょっと待ちなさい。 その前に、農業を見直しなさい。 世界では、月とともに栽培にとりくんでいる地域もあるのだから。
啓蒙で社会は変えられるのか。 ホルクハイマーとともにフランクフルト学派の俊英が問うたこの問題提起は、いまやそうとう大きな難問になっている。 そうであればこそ、でっかい道徳としての「マグナ・モラリア」に対するアンチテーゼ、「ミニマ・モラリア」が改めて注目されるのだ。
本書の一冊の佇まいには仄かな気品があった。装幀者の名は記してないけれど、表紙カバーは生なりの地色と黒一色の明朝ゴシック併用文字が端然としていて、よろしい。定価は2800円だからとくに高価な本ではないが、それでも端然と見えるのは、著者と編集者が丁寧につくろうとしたからだろう。 あとがきを見て知ったのだが、著者が早稲田の修士論文で「レンブラントと銅版画と和紙の関係の研究」を選んでいたことは、やや意外だった。この著者は『小津安二郎と映画術』(平凡社)、『小津安二郎のまなざし』(晶文社)、『小津安二郎の食卓』(ちくま文庫)などで巷間に気を吐いていたので、てっきり映画評論に長けた人物かと思っていたからで
自然も世の中も、パラドックスに満ちている。 かつては、そういう矛盾を「神」が引き受けた。 面倒な問題は「悪魔」に押し付けておけばよかった。 では、神も悪魔も排除した科学は、矛盾をどんなふうに解決しようとしてきたのか。
だまし絵? イリュージョン? トリックアート? 錯視芸術品は過小評価されすぎている。 今夜は「目の温泉」に遊んでほしい。 アルチンボルド、ダリ、エッシャー、スコット・キム、福田繁雄…。
守って破って離れる、のではない。 守破離は、守って型に着き、破って型へ出て、離れて型を生む。 この思想は仏道の根本にも、それをとりこんで日本的な様式行為をつくった禅にも茶にも、また武芸にも、開花結実していった。 しかし守破離の概念の出自と変遷は、いまだ本格的な研究がされていないままなのだ。
いったい日本のアニメは何を語ろうとしてきたのか。 今夜は日米をまたいだ見方を案内してみたい。 『AKIRA』『らんま1/2』『妖獣都市』『キューティハニー』の分析から始まって、庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン』と押井守の『攻殻機動隊』に至り、ついで宮崎駿の『風の谷のナウシカ』『となりのトトロ』から『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』までを論じ切り、さらに『うる星やつら』『うろつき童子』『電影少女』『おもひでぽろぽろ』などをも縦横に俎上にのせている。
崇高と恐怖。類似と共感。 そして「小ささ」と「高さ」と「融合」と「なめらかさ」。 美とは、ここに発祥しているのではないか。 「曖昧」と「欠如」と「闇」を崇高に参集する条件だとみなしたバークの美学。
大乗エッセイである。 ということは菩薩とは何かということだ。 そのために観音を眺めたい。 たとえば不空羂索観音だ。
問題はオタクにあるのか、巷にあるのか。 いったい「萌え」って何なのか。 本書はこれらの疑問を、早くから「東京の趣味化」として捉え、実はそこに「人格の偏在」と「未来の喪失」とがおこったと見抜いていた。
ロハスが何じゃい。 スローライフがどうするんじゃい。 環境保護者がなんで捕鯨船にペンキを投げるんじゃい。 僧職を出て、鳥たちと遊び、ハダカで暮らし、文明の暴力と戦いつづけた中西悟堂翁の、これは「かみなりさま」との誓いの一冊だ。
事物の切り取りから生じる物語としてのコラージュ・ロマン。 イメージの自在な組み合わせが呼びこむ幻惑きわまりないパピエ・コレ。 新たな関係の出現だけで組み立てられる高速のエディティング・アート。 これらいっさいを、1920年代のシュルレアリスト、マックス・エルンストが早々に確立してしまった。
秋田に生まれ、山陽と松陰に学び、東洋と日本を貫く方法を求めて、支那学と日本文化史研究を研鑽しつづけた巨人。 平成混迷の、日中怪しき混雑の時、この「歴史と美の崇高」を見抜いた内藤湖南を、諸君はなぜ読まないのか。