|
|
| | |
| | | ゴダール マネ フーコー―思考と感性とをめぐる断片的な考察 |
| | |
| |
| |
|
|---|
| ■  |
近代(モダン)という時代意識の先端を解読する試み |
|
|---|
| 近代の意識が、言説(discourse)として着実に形成さた時代に着目し、映像におけるゴダール、絵画におけるマネ、言語表現におけるフーコーという分岐で、この意識の複雑さをわかりやすく説明を試みた労作。マネを最初に近代意識と連動して取り上げたのは、著者も指摘しているとおり、バタイユ。「沈黙の絵画」でマネの斬新さとエロティズムを解読する、それ以上に近代の意識と連動していることをゴダールの映画論と映画史が引用していることを手がかりにし、ゴダール以前の言説としてフーコーが60年代から同じくマネの絵画にやはり近代の亀裂を、作家の目線と観客の目線との交差に見出して解釈した過程を精緻に比較分析している。
著者独特の凡庸な語り口の奥深さが、非凡な読解を産んでゆく。精確に読み込まれているに過ぎないが、同じ画面を、同じタブローを、そして同じテキストを見ているにも関わらず精緻に読み込むことの難しさがある。途中で、ロメールなどヌーベルバーグの巨匠たちや小津の作品を多数引用し、ドゥールズの映画論に触発された宇野邦一の誤読の指摘など、ポスト・モダン論とモダン論の隘路に落ち込んだ議論を正すなど、著者の議論、言説は決して軽率な映画論に終わるものではない。そして最後には映画作家としてのユレイと画家ではセザンヌを登場させることによって、近代芸術が準備したポスト・モダン的な構図を複製的に予知させる・・・。これ以上概要を書き込むと興ざめを惹起するのでここで止めよう。
蓮実さんの文章も、良い意味で枯れて読みやすくなった、昔の熱のある文体も懐かしいが、著者の多くの仕事を読んできた者には、この枯れ方を見て、まだまだ書き継ぐであろうことが確認できて嬉しい。 |
|
|---|
| ■  |
ストローブ=ユイレ追悼 |
|
|---|
| 「わたくし」がゴダールのアトリエで『(複数の)映画史』を観るために、ド・ゴール空港からジュネーヴめざして飛び立つ冒頭の場面を読んだ瞬間から、この本の締め括りの舞台を誰もが予測できる。実際それは、ポンピドゥー・センターでのゴダールによる展示「ユートピアへの旅」を見終えて、同じド・ゴール空港から成田へと飛び立つ旅なのだ。
本書は『InterCommunication』誌での連載(04年秋〜07年秋)に2章分を書き足して編まれたものだが、追加されたのは3章と11章であり、1章と最後の12章は連載にもとづく。著者はおそらく、04年の起稿の時点で、この連載にどう決着をつけるか見通しを立てていた。
しかしことがそれほど単純ではないのは、1章の旅が95年8月であるのに対し、終章のそれが06年7月であること。そして「わたくし」は成田に到着するまでに「いわゆるトーキーはサイレントの一形式である」という仮説を手にしているのだが、もしその語るところを信じるなら、1章を書いた04年の時点で著者は終章の内容までは構想し得なかったことになる。とは言え、この仮説の発端は『(複数の)映画史』の「3A」篇なのだから、1章と12章は直結してもいる。
おそらく、もしある一つの出来事がなかったなら、本書は「ゴダールへの/からの旅」として構成されていたのではないか。いわゆる複製芸術、つまり模造品に他ならない映画を「世界でもっとも完璧なかたち」(p9)で見せるために「わたくし」をスイスまで呼び寄せる、神のごときゴダール……しかし、連載途中の06年10月、ダニエル・ユイレが没する。そこから連載は、大きくストローブ=ユイレの方へと旋回していく。その止めの言葉とも思えるのが、「ストローブとユイレは、ゴダールのように、無数の作品の複製に囲まれたまま自分のアトリエで映画を撮ったりはしない。彼らの映画的な身振りは、何よりもまず自分の生活領域から遠ざかることにある」(p211)。それこそが、主体の同定などに煩わされることのない映画に相応しい身振りなのだ、と言わんばかりに。
そして、「わたくしは、(中略)鬱陶しい西日のことを、いまいましげに思い返す」(p251)などと語り手自身を外から描写する本書もまた、主体の位置を不安定にする。それはそうだろう。なにしろこれは、映画なのだから。 |
|
|---|
| ■  |
マネを通してゴダールとフーコーをつなぐ |
|
|---|
| ゴダールの「映画史」(著者は「複数の」とつけています)の「3A」に引用されているマネの絵画を元にして、ゴダールが作る映画を批判しつつ擁護し、フーコーのマネ論へとつなげながらフーコーを批判しつつ擁護する。絵画でも文学でもない映画特有の思考と感性を「あえてとどまっているサイレント映画」に見出す魅惑の本です。途中、寄り道のようにキットラーさんや宇野邦一さんの本への時評的な批評をも差し挟みつつ、最後はストローブ&ユイレへ。
連発される「誰もが知っているように」という前置きに恐縮しつつ読み進むと、映画を見れば避けがたく知ってしまうことを、みんな知ろうとしないのだ、みんな映画を見ていないのだ、とお叱りの声が聞こえてくるようです。映画においてはなんでも起こりうるということを、歴史的、思想的に、平易に解き明かしていて、面白いうえにお勉強になる。
・・・感動のあまり書いてみました。ぜひご一読ください。 |
|
|
| | |
| | |
| | |
| |
| |
| |
|
|
| Copyright @2006 myminty.com, japan. All rights reserved. |
|
|