|
|---|
| ■  |
「聴く」ことを哲学的行為として定義することにより、著者は私達一人一人を哲学する主体へと導く |
|
|---|
| 「哲学者は受け止める側のことを考えずにしゃべりすぎてきたのではないか」と指摘する著者は、「聴く」ことを哲学的行為として定義し、聴く行為が聴く側の自己を創成する上でも大きな意味を持っていることを指摘することにより、言外に読者一人一人が「聴く」という哲学的行為の主体者になるよう誘う。「聴く」行為についての哲学的視点からの意味を提示し、私たち一人一人が他者との関係を構築する際のヒントを与えるとともに、哲学的行為を研究者の専有物から万人に開放した画期的な著作。 |
|
|---|
| ■  |
「聴く」ことを哲学的行為として定義することにより、著者は私達一人一人を哲学する主体へと導く |
|
|---|
| 「哲学者は受け止める側のことを考えずにしゃべりすぎてきたのではないか」と指摘する著者は、「聴く」ことを哲学的行為として定義し、聴くことが聴く者の自己を創成する上でも大きな意味を持っていることを指摘することにより、言外に読者一人一人が聴くことを通じ哲学的行為の主体となるよう誘う。「聴く」ことについての哲学的視点からの意味を提示し、私たち一人一人が他者との関係を構築する際のヒントを与えるとともに、哲学的行為を研究者の専有物から万人に開放した画期的な著作。しかし、「<なんの留保もなしに「苦しむひと」がいるというただそれだけの理由で他者のもとにいる>p.245」ホスピタリティという関係を他者と結んでいくようわれわれを促すものは何か。クリスチャンにとっては、ヘンリー・ナウエンが一つの回答を示している。「全く力なき者として、つまり、この世にあって、弱く傷つきやすい自分以外に、何も差し出すものがない者になるように召されている・・それはイエスが来られて神の愛を明らかにされた方法・・(イエスの御名で:あめんどうp.29-30)」。ここで提起されている臨床哲学は部分的に向谷地生良先生の「当事者研究」により実践の場に移されていると思われる(安心して絶望できる人生:日本放送出版協会) |
|
|---|
| ■  |
鷲田臨床哲学の代表作 |
|
|---|
| 最近の医療人類学(臨床社会学、臨床人類学)のトレンドである、「ナラティヴ」という発想を一歩進めた、鷲田臨床哲学の代表作。 ナラティヴという考え方は、すでにクラインマン「病いの語り」やグリーンハル「ナラティヴ・ベイスド・メディスン」で呈示されていたが、ここでの著者の主張はある意味極めてシンプルである。従来は「ナラティヴ」を傾聴することによって、病者にとっての「病い」とは何かを知る、ということに力点が置かれてきたが、実は知ることではなく、傾聴すること自体にひとを癒すちからがある、というものだ。 もちろん、この考え方自体はすでにカウンセリングにおけるロジャース理論と一脈通ずるものがあり、著者の完全な独創というわけではない。しかし、すでに技法としてある意味限界が指摘されているロジャース理論をもっと幅広い局面で生かしてゆくために、ナラティヴという思想と結びつけたことは紛れもない著者の功績であろう。 また、すでに多くの方が指摘している通り、ファンの多い独特の文体と、砂丘を取り続けた特異な写真家、植田正治の写真が使用されていることも、本書の本としての魅力を高めていることも確かである。 鷲田清一の著書として、まず第一に指を屈したい代表作である。 |
|
|---|
| ■  |
感じる哲学 |
|
|---|
| はじめて、哲学者の書いた本を読んだ。専門的な言いまわしももちろんあるが、広い意味での臨床にたずさわる人へ向けての問いかけもあるため、サクッと入れる。・・・この本はそういった、日頃”哲学”といったものにわざわざ目を向ける機会がないアナタにこそオススメだ。 特に臨床にたずさわっている人なら、漠然と考えていた”目の前の患者(他者)”とかかわることの大切さにハッと気づかされるだろう。それも、医療・福祉業界関係者のような切り口とは又違った、人としてのベーシックな視点からの問いは不思議と引き込まれる。本書は『聴くことの力』ということに着目して、いろいろな方法で掘り下げていこうとする探求の書物でもある。痛みや、出会い、迎え入れるということ・・・そえられているモノクロの写真のように、控えめにでも印象的に知り考えるきっかけになるだろう。 |