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| | | 反解釈 (ちくま学芸文庫) |
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「芸術に対して知性が恨みを果たそうという試みが、すなわち解釈なのだ」 |
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| 作品にあらわれる「純粋な、翻訳不可能な、官能的な直接性・・・」
それがいかにそのものであるかに、形式にもっと注目せよ、とのソンタグの忠告。
"この作品が意味するのは・・・"と当たり前のように使っていたが、芸術は
思想や文化に吸収させるべきではないのだ。
「いま重要なのはわれわれの感覚を取り戻すことだ」とソンタグがいうように、
視覚的・感覚的に芸術を理解することをあまりに恐れていたことに気づかされた。
14歳ぐらいのときに読んでいたかったなあ、と思うのです。 |
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サブカルチャー論の嚆矢 |
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| ソンタグ初期の代表的論攷「反解釈」と「キャンプについてのノート」が収録されている。1950年代、ここ20年にわたるアメリカの大衆社会化、大衆文化の興隆状況にどのように対峙するのか、これがニューヨーク知識人たちの課題だった。既にハロルド・ローゼンバーグの「アバンギャルドとキッチュ」など秀逸な論攷はあったが、いずれも、十全たる大衆文化評価論には到達していなかった。「内容よりも形式」「解釈ではなく、あるがままに作品を捉える」というソンタグの美学論は、こうした社会、論壇状況のなかで爆発的な喚起力をもったのだ。「キャンプ…」は、そうした大衆社会のなかで蠢く「キャンプ」的な感性の輪郭描写を試みたもの。だが留意すべきなのは彼女がキャンプに対して「反発によって制約された深い共感」をもっていると言及しているところだ。つまるころキャンプに対する彼女のスタンスは、欲望自然主義的な感覚重視ではなく、緊張感と危機感を孕んだ、微妙で繊細なサブカルチャー論だったのだ。
50年近くを経た現在、当時は萌芽的であったキャンプ的感性/サブカルチャーは、消費文化の拡大の中で支配的な文化様式へと格上げされた。「キャンプが支配的になったとき、キャンプはキャンプたりうるのだろうか」。この問いに彼女が生きていたらどう答えるだろうか。 |
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スーザン・ソンタグはお好きですか? |
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| 911テロ直後の発言で久しぶりにスーザン・ソンタグの名前を聞いたと思ったら、先日新聞に訃報が載っていました。何かにつけ「アメリカの知性」と紹介されていましたが、それは単に、頭のいい、口うるさい人と紹介しているのと同じでした。(チョムスキーが言語学以外の政治的発言をする時にも、そう紹介されること多いようです。) 私自身は彼女のフランス仕込みのレトリックについて行けないことが多々あります。ただし、本書の中の「キャンプについてのノート」はレトリックとは無縁で非常に興味深く読めました。"キャンプ"とは、できの悪いもの、いわゆる"ヘタウマ"なものを愛でる感情に関連する言葉です。ドイツ語の"キッチュ"という言葉に近い意味を持っています。これについて説明する時、彼女は例を挙げながら、これはキャンプ、これはキャンプではない、というふうに説明していきます。しかもこれでしか説明できないと。ちなみに、我が国が誇る映画"ゴジラ"はキャンプなものに分類されています。 |
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