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大学で学ぶはずだったこと。 |
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| 大学生のための入門書である。大学時代にこの本に出会っていたら、と思うのだが、大学時代にこの本に出会ったとして、私はそれを有効に消化できただろうか、とも思う。私は理学部に在籍していながら、「実証すること・証明すること・検証すること」を学ばずに「信仰するか疑うか」の二項対立でしか物事を考えられなかったことを思い出し、心から恥ずかしく思った。私は、黒板に先生が何も書かなければ何もノートに書かない、ノートのとれない学生だった。メモ書き程度のノートに試験前に何度慌てたことだろう。本書にはノートをとることの大切さも書かれている。私は大学時代、そんなことを教わらなかったし、教わらないでも「自ら考えて行動する」のが今考えれば当然だったのであるが・・。大学で何を学ぶか、それは「自分の頭で考えることだ」としばしば言われる。社会人になって「自分の頭で考えろ」、とか「頭を使えよ」と言われることほど恐ろしいことはない。大学生でいる時が19歳から22歳というのは私にとっては幼すぎたと思い、その後社会人学生として学んだのである。
難しいことよりも「私って本当にわかってしゃべってるのかなあ」という素朴な疑問の中に大事な問題の核があったのだ。その疑問をこれからはきちんとノートに書き留めながら考え続けたいとこの本を読んで思った次第である。 |
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自分は「知識さえ足りないバカ」かも…と不安に感じてるヒトにお薦め |
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| 著者の著作で書名に「バカ」の語が見えるのは、『みんなのバカ』に次いで2冊目か。
書名に「バカ」入りと言えば、何と言っても『バカの壁』があるし、検索してみると『学はあってもバカはバカ』とか『やっぱりおまえはバカじゃない 』とか『インドへ馬鹿がやって来た』とか『最高学府はバカだらけ』とか『英語を学べばバカになる』とか『日本人はどこまでバカになるのか』とか『賢い身体 バカな身体』とか『バカのための読書術』とか『まれに見るバカ女』とか、ま、キリがないんでこの辺にしときますが…
で、この本の「バカ」っていうのは要するに自分を相対化できない人間で、それを著者は「宗教的」というキーワードで切っていく。例えば「(絶対的に信じてよい知の体系など、)宗教的な崇拝の対象のようで気味が悪い」(p5)とか、「私たちは主権者だ!」という「実感を持っている人がいるとしたら、何だか気持ち悪いですね」(p17)とか、「(とりあえずという)自覚がないままに、他人の『方法=道筋』に従っていたら、宗教の信仰と同じ」(p33)とか、「『魂の出会い』などというのは、宗教の話」(p63)とか、「『ノー』とさえ言えば、後は(中略)自動的に話が深まっていくなんて、宗教みたいな話」(p85)とか、二項対立図式に嵌ってナイーヴに立場転換する人間は「信仰する“宗教”が変わっただけ」(p133)とか…
ま、仰ることは分かります、的な… |
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社会人にも是非! |
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| 社会人です。学生時代に出会っておきたかった内容です。
ディベートなど二項論争が好きな方、自分は広い目を持っていると思っている方、大学の一般教養(俗に言う「ぱんきょう」)がムダだと思える方などに是非是非読んでいただきたいです。自分の浅はかさに愕然とさせられます。
私自身ディベートを学び論争に勝つことでいい気になっていた時期もありましたがそんな自分が恥ずかしく思えます。本当の意味で「学ぶ」とはどういうことなのか、本当に意味で「真実を見つける」とはどういうことなのかを知ることができる大変な良書です。
学生向けの本ということで多少哲学的な用語が多いですが気にせず社会人にもよんでいただきたいです。 |
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大学生のための入門書 |
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| 恐らく本書は著者がこれまで書いてきたことを大学の新入生に対して分かりやすく書き直されたような性格のものであるため、著者の愛読者には少々もの足りなさを感じるだろう。
「ルネサンス以降の西欧『ヒューマニスト』たちは、まずラテン語やギリシア語の文法を習い、それらの古典語による美しくて正確な表現の例として、プラトン、アリストテレス、キケロなどの文章を学んだわけです(P.165)」と著者は書いているのだが、キケロというのは恐らくセネカの間違いであろう。キケロはタキトゥス同様斬新な文章表現でいまだに‘正確’に解読されてはいないから、というのは勿論私が原書を読んだ時に感じた個人的な感想ではあるが。
しかし本書P.196に書かれていることは、早稲田文学第十次創刊号に掲載されている蓮実重彦「批評の断念/断念としての批評」批判であることは間違いない。 |