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新版 歴史のための弁明 -歴史家の仕事ー 
歴史を学ぶということ 
What Is History? 
自分のなかに歴史をよむ (ちくま文庫) 
歴史学ってなんだ? (PHP新書) 

 
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 歴史とは何か (岩波新書)
歴史とは何か (岩波新書)
 
¥ 819
発売日:1962-03
岩波書店
オススメ度:
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■  「いまを生きる」ための戦略的技術としての歴史研究・歴史学習
 E.H.カーの著作で、日本でとても有名な著作。自分も高校生の時に買って、何度も挑戦してはわかりにくくて放棄し、また読んでの繰り返しだった1冊。
 今改めて読み返してみると、歴史の持つ個人的効用、社会的効用がわかり始めたような気がする。「歴史は現在と過去の対話である」という言葉がここではとても印象的に使われているが、じゃあなぜそんな対話をする必要性があるのか。
 今の社会で広範に流布している風潮は「いまを生きよう」や、「二度とないこの瞬間を大事に生きていこう」といったものが有力に見えて、そこには歴史を学ぶ必要性・必然性は欠落しているし、歴史への意識はかえっていまを生きる上で邪魔な障害物でしかないように思わせる。じゃあなぜ、歴史を学ぶ必要があるのか。
 それは、いまを生きるときの「いま」は歴史的に構築されたもので、何らかの勢力が特定の意図の下で設計した結果として「いま」が「あるがまま」にあるという事実を、歴史は学ぶ者に教えてくれるからだ。この議論は本書の中に収録されている。そのことこそが歴史を学ぶべき最大の理由なのだと思う。毎日毎日、毎週毎週、毎年毎年「いまを生きる」ばかりでは、自分たちがいる位置について知ることは出来ないし、自分たちを取り囲んでいる諸々の制度の仕組みについても知ることが出来ない。「いまを生きる」精神を要求しているのは、例えば今の産業システムであり、それを前面に立って支えているマスメディア産業であり広告産業であり、そこでは物事のもつ歴史性を隠蔽し、また歴史自体を商品にすることによって人々を永遠に「いまを生きる」状態にとどめようとする傾向をもつ。そんな状態を食い止めるのが、現状の持つ問題性を明らかにする戦略としての歴史研究だ。

 そういう風に考えれば歴史研究は実はとても過激なインパクトを齎すことの出来る分野でもあり、普通に生きている人々にとっても「いまを生きる」際の基本的なリテラシーともなり得る。この著作は、そんな視点からの読解にも耐えうる、中身の濃い1冊です。

■  「主観」という言葉のひびきが悪いものであるかのような誤解をとく
 大学では西洋史を専攻した私。史学科の課題図書の筆頭はこのE.H.カー『歴史とは何か』だった。そしてカーの決めゼリフは「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話である。」(p. 40)
 でもこれだけでは、カーの真意は伝わらないように思うので、私の言葉でカーの代弁をしてみたいと思う。
 一般的には、歴史的な事実というと、考古学や日本史の遺跡発掘のイメージで「客観的事実」を宝探しの宝を探すように「発見」し、それを記述したら歴史が出来上がり、という感じがするのだが、そうではない、とカーは言いたいのである。そして「主観的」という言葉が何か悪いものであるかのように考えられがちだが、そうではなく、歴史家の「判断」があって初めて「歴史的な事実」として認められるのだということである。そうすると主観的な判断が入るので「客観的事実はない」「不変の真理はない」と嘆いたり、怒ったり、ぐれたり、すねたりしてしまう人がなぜがいる。それが学問的態度ではない、って言うことなのだ。私たちができることは、限りなく近づこうという態度で臨むことだけだ。そしてあくまでも仮説として設定することに意味があるのである。「客観的事実」を設定すること、「不変の真理」を設定すること、それに意義がある。有るかどうかは問題ではない。(愛も神様もそういう存在だと私は思っています。)
 画家の安野光雅は数学者で水道方式で有名な教育家でもある遠山啓と対談し、以下のように語っている。「主観」という言葉のひびきが悪いものであるかのような誤解をとくこと。これが科学教育の第一歩だと思います。

●安野:ひとつの目的に到達するための一種の方向感覚のようなものはありますか。(中略)
●遠山:構想力といいますか、これは数学ばかりでなく、科学ぜんぶがそうだと思います。科学をあまり知らない人は、科学というのはわれわれの世界を写真みたいに写す学問だというように考えている。そういう人が多いのですが、実際は写真みたいな写し方ではない。むしろ、絵に近いです。不必要なものは大胆に捨象してしまう。重点的な点だけつかみだして見ていくんですね。だから、科学的な精神というのは、なにかおのれをむなしくして、写真のカメラみたいにならなければいけないように考えている人が多いようですが、実際は、そうではない。非常に主観がはいるわけです。
『空想茶房』(平凡社1986年 <初出> 美術と数学との対話『遠山啓との対話 教育の蘇生を求めて』太郎次郎社1978年)
2002-11-9記す

■  歴史研究者志望者と歴史教育者は必読書
本書は「歴史学」は如何なるものかについての論考である。
歴史学研究の基礎となる名著は本書以外にもあるが、
本書は多角的な視点で史実や研究方法及び史料批判の方法、
そして思想・哲学分野も含まれており、
歴史研究者を目指す者や教職課程で歴史学を学ぶ学生は、
必読の書と言えるであろう。

■  『水準器的意義』
 歴史・宗教・民族。これらはすべて琴線に素手で触れてしまう危うさを秘めているため、どうしても扱いにくいと思うのは、小生だけではあるまい。ことに「歴史」という言葉を目にする時、その意味は、「事実」、「まつわる感情」、「歴史という名の履歴の見方」等々、完全にとは言わぬまでも、分割すべきものが、ないまぜとなっている気がする。本書は、小生が示したもののうち、「歴史という名の履歴の見方」つまり「歴史哲学」について再考を促す書物である。
 著者E・H・カーは、1962年の本作出版時、トリニティ・カレッジのフェローであった。この著作はケンブリッジで1961年に行われた連続講演を基に仕立て上げられたもので、とても読みやすく、問題点がよく分かり、また原注も丁寧である。

 著者のスタンス(視点)は、あくまで冷静・穏健でありながら厳しい。それは『歴史を研究する前に、歴史家を研究してください』そのためには『歴史家の歴史的および社会的環境を研究して下さい』という主張に現れている。つまり、歴史は、歴史家を通じて届けられる『社会的産物』(3点とも同書p61より)であることに注意せよ、という事で、まさにこの点を意識しつつ、目次に掲げられた6項目について述べているのである。
 歴史哲学というと、へ―ゲルなどに見られる「史観」という看板のもとに、ややもすると、強引な押し売りが目に付くが、本書は、たとえそのような事が後に明らかになったと仮定しても、極めて地に足のついた秀作であると、小生は感じた。

よって推薦したい。

なお現代においてのスタンスは、『岩波講座 世界歴史 第一巻』に手際よくまとめられているので、こちらも参考になる。

 
 
 
 
  
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