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| | | 歴史哲学講義 (上) (岩波文庫) |
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アプリオリな歴史 |
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| ヘーゲルは哲学的歴史について次のように語る。
「というのも、歴史においては、あたえられた存在に思考が従属し、思考はあたえられた存在を基礎とし、それにみちびかれるのにたいして、哲学本来の思考とは、あたえられた存在にとらわれることなく、自発的に思索をうみだしていくものだとされるからです。哲学が自前の思考をたずさえて歴史におもむくと、歴史を一つの材料としてあつかい、それをそのままにしておかないで、思考によって整序し、いわば歴史を先天的に構成することになる。」
ひとびとはこの哲学的歴史の概念を理解せずに、自分の考えを押し付けて、ヘーゲルを批判する。ヘーゲルによれば、哲学的歴史とは、歴史を材料にして、材料をそのままにせずに、思考によって整除し、歴史をアプリオリに構成することだ、いう。この意味では最初からヘーゲルは、所与の存在に思考が従属し、所与の存在を基礎とする、それに導かれるのを拒否し、アプリオリの構成に向かっている。だから、歴史はアプリオリに構成されないとする人たちとは初めから袂を分かっているいるのである。
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意外と「哲学」の部分は少ない |
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| まず大変に訳がよくて、すいすい読める。
タイトルに「歴史哲学」とあるので、当然哲学的な本だと思っていたが、ところがどっこい。
「歴史哲学」をしているのは、「序章」の100ページちょっと。残りは「ギリシャ」「東アジア」など、世界史の話になっている。
歴史哲学だけ知りたい人は、ボリュームに身構えることなく、気楽に読んでもらいたい。 |
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誤解の多い本 |
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| ヘーゲルの中では最もポピュラーで入りやすいだけに、誤解が蔓延、結果的に、同氏のあらぬ悪評の原因になった本。ヘーゲルは人間の歴史、人間の社会の原動力を「自由」に見ている。丁度、物に重力が掛かるのと同様、人間には「自由」が本質的だ、と。だがここで言う「自由」とは、自己に掛かる制約を外していこうとする情念・本能のことだ。唯物史観のマルクスの思想は天才的だが、より幅の広い概念として「自由」を立てるヘーゲルの史観はやはり天才の膂力を痛感する。「人間の歴史は自由の発展の歩みだ」というのは、様々な制約を取り払い、自分で自分を制御する真の自由「理念」への道のりだという。情念の放埓に見える人間の営みは、唾棄すべき残酷な歴史にしか見えないが、しかし、よく見てみると、結果、多くの制度や習俗規範を生んで、少しずつだが多くの人間の「自由」を保証してきた。歴史にこの姿を読み込んで「哲学」にしたのが、彼の「歴史哲学」だ。それは、超越的に頭の中で作り上げた「哲学」ではなく、「人々の足跡」を読み込んだ「哲学」といえる。民族国家さえ出来ていない当時のドイツの状況を考えれば、20世紀のナチズムの影を彼に読み込んで、国家主義者だと批判するのは荒唐無稽。アリストテレスを奴隷主義者と批判するのと同様な非常識でしかない。それに、現在、我々は国家についてヘーゲルのような楽観的な意見は持ち得ないが、しかし、国家を無視したところで、思想・日常生活・社会を語ることが可能だろうか。国家の問題を真正面に据えて取り組んだヘーゲルの思想を超える思想はまだ無いと思う。しかし、また、ここまでの現実感を哲学に持ち込むことで、「哲学」が「可能なのか」という疑問も捻出されよう。これ以上現実的であることは、もはや機会を睨んだ実務家の仕事になるし、より「内面性」に傾斜して「単独者」に注視すれば、それは真空管の議論として聞く耳持つ人間は居なくなる。「哲学の極北」にたつのがヘーゲルだと思える。 |
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新しいヘーゲルに出会えます。 |
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| 全集版の堅苦しさがなくなって、誰にでもと言うわけではありませんが、非常に読みやすくなってます。1日1日をこつこつと営んでいる労働者には腹立たしい1冊です。なんでもかんでも、自己を超えた理性のせいにするな!生きてることが虚しくなるじゃないか。そう思いませんか?そう思った人は序論だけでも読んでみませんか? |
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